仙台市の広瀬橋、北海道の渡島水力電気工事、鬼怒川水力ダムなど、廣井が顧問として関わった工事は数多い。どれも廣井の助言で新技術を導入して完成させたものである。しかし、彼は一切の報賞金を受け取らなかった。金品を渡そうとすると、「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と言って拒絶することが常だった。
贈収賄が当たり前の土木建設業界にあって、彼は常に身辺を清く保った。贈答品や金品には一切手を触れようとはしなかったし、宴会嫌いでも有名だった。また大学で発明した機器類は決して自分の特許とせず、自分の利益とすることはなかった。還暦(60歳)の祝い金として寄せられた祝金も、みな母校の北大工学部と土木学会に寄付してしまった。
1928年10月1日、高潔無私を貫いた廣井勇は、67年の生涯に幕を下ろした。亡き友の葬儀で内村鑑三は、葬儀の追悼演説で語った。「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、廣井君の事業よりも廣井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました」。
(古川勝三氏提供)