廣井勇の人生に大きな転機が訪れた。東京で明治天皇の侍従を務める叔父の片岡利和が、帰省の折、廣井家に立ち寄ったときのことである。勇は叔父に懇願した。「東京に出て勉強したい。自分を書生に使ってほしい」と。片岡はためらった。まだ10歳の少年である。しかし、少年の意志は強固で、その熱意が家族と片岡を動かした。
1872年、勇は叔父に連れられて、土佐の浦戸で東京行きの船に乗った。岸壁には母と姉の春子が手を振っている。少年は目に涙をためながら、姉が別れ際に語った言葉を思い出していた。「お前もサムライの子です。『もし学成らずんば、死すとも帰らず』の気概を持ちなさい」。勇は片岡家の邸宅で玄関番を命じられた。日中は、英語、数学、漢学などを学ぶため私塾に通い、暇を見つけては片岡家の書斎の本を借り受け、貪るように勉強した。その後、東京外国語学校の英語科に入学。当時、最難関の学校に満12歳で入学を果たした。もちろん最年少である。その後、理工科系では名門中の名門であった工部大学校予科へ転学したものの、そこを中退。北の未開の大地北海道に向かうのである。片岡家に頼る生活を断ち切りたかったからであった。
(古川勝三氏提供)