廣井ら2期生10人が卒業したのは、1881年7月。北海道に残り開拓使に勤めたが、翌年には開拓使が廃止。廣井は工部省に転じ、東京生活を余儀なくされた。この頃、廣井の心を占めていたのは、「是非ともアメリカに渡って、土木工学を極めたい」という熱い思いであった。
彼は渡航経費捻出のため、生活費を切りつめ貯蓄に努めた。服装は粗末のまま。意味もなく金銭を浪費する会合などには一切顔を出さなかった。同僚たちは彼を「守銭奴」と陰で呼んでいたほどである。そうまでして金を集めたのは、自費での渡米にこだわっていたからだ。先輩を差し置いて、年少の自分が国費で渡米することを潔しとしなかったのである。ついに念願が叶い、1883年12月、21歳の廣井を乗せた蒸気船が横浜を出港した。アメリカ4年、ドイツ2年の長きに及んだ彼の海外生活がこうして第一歩を踏み出したのである。
滞在先は西部開拓の拠点セントルイスである。ここに下宿し、ミシシッピー川の河川改修事業に携わった。その後、設計事務所に雇われ、設計と施工を手がけた。さらには、鉄道会社や橋梁会社の技師となることで、鉄道の橋梁の設計、施工に従事することになる。廣井の場合、留学といっても、大学にこもって勉学したわけではなく、土木の実際の現場を体験した。滞在費用を自分の手で稼がなければならなかったからではあるが、結果的には、それが土木技術者として彼の大きな財産となった。
仕事に励む傍ら、彼は勉学を怠ることはなかった。同僚は彼の部屋の明かりが消えているのを見たことがなく、「日本の青年はこうも勉強するものか」と感心していたと言う。仕事と勉強、そして読書三昧の日々。こうした現場体験の中、彼は英文の論文を書き上げ、それを本として出版した。『プレート・ガーダー(鈑桁橋)建設法』と題したこの本は、大変高い評価を受け、橋梁工学者の間では必携のハンドブックとされた。主要大学の理工科系大学図書館には、今でも蔵書されているという。25歳の快挙である。
(古川勝三氏提供)