約6年間の留学生活を終えて、帰国したのは1889年7月のこと。帰国後、母校の札幌農学校教授として迎えられ、札幌に居を構えた。その後の廣井の活躍は目覚ましい。札幌農学校で教育するかたわら、北海道庁の技師を兼任し、北海道の港湾建設の大半に携わり、それを指揮した。その中でも小樽港は廣井が指揮した代表例である。小樽築港事務所長として、10年に及ぶ一大公共事業に臨んだ廣井はそこに持てる全てを投入した。工事は困難を極めた。暴風雨により、積み上げたコンクリートブロックが何度も散乱。その上、日露戦争のあおりで予算が大幅に削減された。不利な条件下で完成したこの工事は、今なお「模範工事」と称賛されている。築港から百年以上たった今でも機能しているその優れた技術力の故であり、廣井の指導力と周密な計画により、予算を余しての完成となったからである。
廣井は常に第一線に立ち、現場で指揮を取った。ある年の12月25日、突然の嵐が防波堤を襲った。資材が次々と流される。多額の国家予算を投じて作られた巨大クレーンも大波にさらされていた。これが流されてしまえば、このプロジェクトは水泡に帰す。
廣井は大自然の猛威を前に立ち尽くすばかりであった。人事を尽くして天命を待つ心境で、荒波を前に夜を徹して祈った。翌朝、駆けつけた作業員たちは驚いた。かちかちに凍てついたカッパを着て、祈る廣井がそこにいたのである。幸いにも、クレーンは少し傾いただけ。防波堤も怒濤に耐え抜いた。この時、廣井は胸に密かにピストルを忍ばせていたという。万が一の場合、責任を取って防波堤と共に死する決意であった。